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 歴史主体論争

 戦後歴史学の転換が90年代前半に起こった。戦後のマルクス主義が主導した歴史学、唯物史観に対抗する考え方は70年代から近代化論をはじめナショナリズム史観として出てきた。それはポストモダニズムによって強まった。
 歴史は客観的に描くものでなく、主観的に構成されるものであるといったポストモダン的な考え方は、「国民の物語」を作るべき、という主張と紙一重だ。
 ただ「国民」というのは作られた観念だ。われわれが日本に持つ「われわれ意識」は近代的、人工的なものだ。
 こうした国民国家批判を外側からしてもだめだ。どうして「日本」が形成されたのか、根底から問い直そう。歴史主体論争の一方の当事者、加藤典洋氏(文芸評論家)の問題意識はそこにある。
  歴史主体論争は1995年から97年ごろに、加藤氏と高橋哲哉氏(哲学者)その他の人との間で交わされた論争だ。
 加藤氏は、まず自国の死者を祭った後に、アジア・太平洋戦争の犠牲者の慰霊があるべきで、自国の犠牲者に向き合わうことで、戦後日本の歴史を担う主体性が形成されるとする。
 それに対して高橋氏は、自国の死者への感謝の共同体の形成につながるとし、またその場合の自国には在日朝鮮人は入るのかと反問する。また一般兵士と権力者の差をあいまいにすると批判する。

    先行する現実 

 この論争は現実政策の論争ではない。日本国はずっと日本の死者を優先して慰霊し、遺族補償などに30兆円を支出してきた。毎年、終戦記念日には政府主催の戦没者慰霊祭が行われる。死者の追悼では現実の方が進んでいる。
  
 加藤氏と自由主義史観等との差

 加藤氏の主張は「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張とは異なる。小林よしのり氏の考え方では公共性と国家はイコールであり、個人も国家へつながっていかなければ、公はばらばらになるという。
 一方、加藤氏は歴史形成主体は何かを問う。主体をおいてどう他者があるのかを問題にしている。
 ただ常に主体から国家を考えていると、主体も自己愛に近くなる。たとえば「つくる会」教科書には、日本の縄文文明は世界の四大文明に匹敵するなど「お国自慢」に近い記述が多い。
 加藤氏は戦争犠牲者の追悼により、主体を作り直そうというが、その主体が危険なものになる可能性もある。
  
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コメント

"「われわれ意識」は近代的、人工的なものだ。こうした国民国家批判を外側からしてもだめだ"?? なぜ何の検証も無く「外」を切り捨てるのか?歴史認識の分裂、迷走は「外」の視点が欠落していることに起因するのではないのか?歴史修正主義者は自虐史観なるものを振りかざし、朝鮮、中国を敵視する。しかし、いずれ南北朝鮮は統一され、中国も体制の限界を迎えるのは時間の問題。もし、中国の指導者が体制の転換へ舵を切ったときアジアはどうなるか?鎖国の体制観念をまだ引きずっているのなら不幸である。
2007-07-11 13:24 | 山猫 #- URL [ 編集 ]

山猫さま

コメントありがとうございます。

わたしには、加藤典洋-高橋哲哉論争は、何かすれ違ったような印象でした。その後、「靖国」を称揚する人々が、国民国家やその歴史を相対化しえる契機になったとは思えません。

「靖国」については、加藤氏のような「内在化」ではなく、小泉元首相の素朴追悼論による大衆扇動が、その後続いたわけですね。
2007-07-11 22:26 | JCJ神奈川支部ブログ #VWFaYlLU URL [ 編集 ]

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