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 表現することでの「救済」
~民族派ロッカーと映像作家の交流、『新しい神様』~

「こんな世の中、どこかおかしい」「自分はこの時代と合わない」、そういう思いを抱く若者はいつもいた。彼ら、彼女らの不定形の不満を動員する者は?彼女ら、彼らの倦怠や焦燥はたんに若さの合併症なのか?
 土屋豊監督はかつて『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか』というビデオ作品を作った。おそらく人々に天皇の戦争責任を問いかける事は政治的挑発ではなく日本人の内面化した責任回避となれ合いを問うことなのだろう。この『新しい神様』は民族派パンクバンドをやっている雨宮処凛(あまみやかりん)という女性のモノローグと行動を中心に構成されている。

  新しい神様       民族派ロックバンド『維新赤誠塾』
 「国旗・国歌法」も通れば「盗聴法」も通る。しかも安逸な日常は続いていく。土屋監督にこの時代への問題関心はあると思う。しかし監督は雨宮を対象化して、日本のネオナチ運動の危険性を探ったりはしない。自ら語るところによると彼女は子どもの頃にいじめられ体験があって、思春期もうまく社会と適合できなかった。民族派右翼の思想と出会って共感し、伊藤秀人(いとうひでと)とロックバンド『維新赤誠塾』を結成。自ら作詞した歌詞をライブハウスでシャウトしている。彼女らのステージも作品には出てきて、雨宮たちが北朝鮮に行って旧赤軍派メンバーと会うシーンとともに映画に変化をつけている。
 ビデオ日記のように撮影日時の入った映像は、雨宮や伊藤の語り、あるいはあるいは話し合い。ときどき土屋自身が画面に入って彼女らと議論したりする。また雨宮自身がビデオで撮った映像もとりいれられる。出演者は主張し、映像表現さえする。作家の一方的な語りが全編を支配することのない作り方の特異さが評価されたのだろうか。山形国際ドキュメンタリー映画祭’99国際批評家連盟賞を受賞している。

      天皇を「信じない」右翼 
若者が右翼思想に取りこまれる危険性をメッセージしないのは土屋の作風にもよろうが、雨宮と伊藤の考え方や個性にもよる。雨宮は戦後民主主義の欺瞞を説く言説に共感し、そう考えることで世の中が見えてきたと述懐するが、戦前の価値観を信じてはいない。伊藤にとっても絶対的な天皇を信じているわけではなく、真剣さや奉仕を笑う安直な相対主義への疑念が戦後民主主義への批判となっているようだ。彼らは天皇の普遍を信じる実念論者(realist)ではなくむしろ唯名論者(nominalist)なようで、天皇という観念に取りこまれることも、天皇を信じる自分という情緒に溺れることもない。むろん彼らは日常から身を起こし、自分をかけるものを模索している。その表現形態として彼女らにはバンド活動があり、土屋はそこに共感して自らの創作活動を重ね合わせているようだ。

  表現することで他者と交流 
かなり頻繁に雨宮はカメラ目線で語りかける。土屋も登場人物の一人として映像の中で発言している。このビデオはとりようでプライベートな世界の閉じた話のように思われるかもしれない。しかし土屋は「私」に居直って、極私的表現に立てこもっているのではない。
 どうも土屋は、カメラのフレームで世界を切り取ること自体が権力ではないか、撮る者、撮られる者の関係性自体が権力構造ではないかと疑っているようだ。遠近法や調性、流麗なメロディーや巧みなストーリーテリングも他人の意識を動員するという観点では、いくらか「ファシズム」だと感じることもあるものだが、さらに土屋は作家性を禁欲することさえいとわないように思える。しかも彼は表現行為、表現することで世界と交通する可能性自体は強く信じている。
 「土屋さんは私のこと、好きなんじゃないかなあ」とビデオの中で雨宮は口走り、後には「私が土屋さんを好きなのかなあ」と言い出す。極私的ビデオと誤解を生みそうなところだ。しかし、いささかブリッコな表現で言えば、土屋にとって表現することは世界に宛ててラブレターを書くことなのだろう。観念上で世界を秩序立て、支配することではない。
 一番最後、雨宮は「自分にはビデオがなくてはならなくなった」という。彼女も撮ること=撮られることの表現行為に、他者との交通の可能性を見出したのではないか。
 天皇や民族派思想、あるいは社会主義などイデオロギーが無化した時代、しかも自由だとは思えず閉塞感がある…。現代に新しい神様を探すことは、自分探しより辛いかもしれない。この作品は、表現する者-される者の関係性を壊したところに新しい神様との出会いを示唆している。それは卑小な自分が「絶対性」に包まれる救いではなく、傲慢な超人が他者を踏みにじる解脱でもない。表現すること(世界に語りかけ耳を傾けること)による他者との関係性の中に、神様は新たにたち現れる。 
  (保坂義久)


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